富永讓と「フェズ・エル・バリ」

Credit : Writer きづき編集部
From : きづきvol.40「建築と私」

著名建築家と、思い入れのある建築物。古い友人のようなその場所で、ある人は“建築を始めたきっかけ”を、またある人は“恩師との思い出”を―彼らは、在りし日の自分と対峙し、語り始める。

富永讓さんにとっての「フェズ・エル・バリ」とは。

きらびやかな風景の先にある、穏やかな暮らしを感じたヴェネツィア

ヴェネツィアの人たちは、自分の街を、世界でただ一つの都市〈チッタ・ウニカ〉といって自慢するのだという。1974年8月、パッラディオ(*1)の建物を見るための、初めての海外旅行で立寄ったヴェネツィアは、類例のない美しさに満たされていた。キラキラと輝く水辺をただ目的もなく歩き、岸辺に寄せるピチャピチャという音響や、海の風の匂いに酔うように一日を過ごした。観光客でざわめく華やかな広場から、島を渡って住宅地へと行くと、狭い路地の先には、きまって年寄りたちがプラタナスの木陰にテーブルを出し、集まっている小さな広場があって、ボールを追いかける子どもたちの歓声だけが石壁に響く、打って変わって静かな生活の日常があるのだった。

*1: 16世紀に活躍したイタリアの建築家。ヴェネツィアの観光名所であるサン・ジュルジョ・マッジョーレ聖堂は彼の代表作。

人の営みの風景が、躍動感をもって迫ってくる”世界でただ一つの都市”

それから40年後訪れたモロッコのマラケシュからフェズへと横断する列車の、流れてゆく車窓には、荒れた大地のなかに、道を通し、列車を走らせ、緑を植え、羊やロバといった動物を飼い、住みついている人間の風景があった。フェズ・エル・バリは実にユニークな私にとって見たこともない〈チッタ・ウニカ〉であった。太陽は一つ、人間の土地の照明係として地上を照らしているが、土の迷路のすみずみには様々な場所が展開する。人間の身体に結びついた感覚のミクロコスモス(*2)の集積としての全体、ヴェネツィアとは全く別の生き生きとした〈街の感覚〉が生み出されている。地型や水利、周辺に対する実用から組み立てられているのだろうが、見事な、細部と全体の組織があり、とても計画性のない自然発生的なものなどではあり得ない。全体から統一した姿や美を追求した思考とは対極にある、人間の生活の知恵が土地に浸み渡った生成的なものだ。

さて、現代の日本の街、建築はどうか、私にとって〈チッタ・ウニカ〉であるか。街や建築の意味は、ニュアンスに富んだ〈世界のなかの世界〉であり、人間の土地、異邦での場所はそうしていつも建築の思考を誘発する書斎である。

*2: 広大な宇宙のことを指すマクロコスモスとの対比で、きわめて小さな存在である人のこと。

  1. モロッコの古都「フェズ・エル・バリ」の旧市街地の街路。狭い街路が迷路のように続く。街全体が世界文化遺産に登録されている。
  2. イタリアの古都「ヴェネツィア」の運河。

富永讓(Yuzuru Tominaga)

1943年台北市生まれ。1967年東京大学工学部建築学科卒業。1967-72年菊竹清訓建築設計事務所、1973-79年東京大学建築学科助手、1975-2002年日本女子大学、東京大学、東京藝術大学等で講師を勤める。2002-2014年法政大学教授、2014年-法政大学名誉教授。主な受賞歴に2001年日本建築学会作品選奨受賞(茨城県営長町アパート)、2003年日本建築学会賞(作品)受賞(ひらたタウンセンター)、2004年医療福祉建築賞受賞(エンゼル病院)、2008年日本建築学会作品選奨受賞(成増高等看護学校)、2016年第57回BCS賞受賞(八幡厚生病院本館)ほか。主な著書に『近代建築の空間再読』(1985、彰国社)、『現代建築 空間と方法』(1986、同朋社出版会)、『建築家の住宅論』『ル コルビュジエ 建築の詩』(1997、2003、鹿島出版会)、『現代建築解体新書』(2007、彰国社)、『吉田五十八自邸/吉田五十八』(2014、東京書籍)、『富永讓・建築の構成から風景の生成へ』(2015、鹿島出版会)ほか。

モロッコの古都「フェズ・エル・バリ」

モロッコ北東部の都市フェズにある旧市街の一地区。1981年に「フェズ旧市街」の名称で、ユネスコの世界文化遺産に登録された。アラビア語で「古いフェズ」を意味するその名の示すとおり9世紀から続く古都で、民家や神学校など古い建築物が1,000年以上の時を経てそのまま残り、中央には北アフリカ最大のカラウィンモスクがある。1,000もの狭い通路が複雑に入り組んだ街並みから迷宮の町とも呼ばれ、坂や階段の多い起伏にとんだ地形のため、主な輸送手段としてロバや馬が用いられている。フェズ・エル・バリは共同の給水泉やパン屋、モスクから成るいくつもの小メディナ(旧市街)で構成されており、伝統的な人々の暮らしをありのまま、間近に感じられる場所として、観光客の人気を博している。

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